茨城の廃線のページ

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画 像

記 事

鹿島鉄道

 常磐線の石岡から霞ヶ浦の北岸を通り、鉾田へ達していた鉄道です。鹿島参宮鉄道として1924年(大正13年)に常陸小川までが開業し、1929年(昭和4年)に鉾田までの全線が開業しました。
 戦時の統合で1944年(昭和19年)竜崎鉄道と合併し鹿島参宮鉄道鉾田線となり、1965年(昭和40年)には、常総筑波鉄道と合併して、関東鉄道鉾田線となりました。その後収支の悪化から関東鉄道から経営分離され、1979年(昭和54年)に鹿島鉄道となりました。
 1970年代以降、航空自衛隊百里基地へのジェット燃料輸送が収入のなかで大きな割合を占めていましたが、2001年の燃料輸送の終了により、収支は大幅に悪化しました。
 存続運動が組織され、沿線自治体・親会社の5年間の財政援助により運行が続けられましたが、2005年のつくばエクスプレスの開業により大幅減収となった親会社が支援を行わない事を表明し、存続運動の甲斐も無く、2007年3月31日の最終運行をもって廃止されました。
 廃線後、バス代替されましたが、設定された運行本数が鉄道営業時よりも少なく、また、石岡付近の渋滞のため定時性が低下したことなどから、バス需要は低迷し、茨城空港の開港も視野に、石岡から常陸小川までの線路敷きのバス専用道化が計画され、石岡〜四箇村間のBRT化が行われました。これには、存続問題当時、沿線自治体が組織した鹿島鉄道対策協議会が提示した支援額や、鹿島鉄道が2007年度からの5年間の車両・設備更新なども含めた支援希望額として提示した額をも上回る約11億円が投入されました。
 しかしながら、バス需要は改善には至らず、常陸小川〜鉾田間のバスの本数は鉄道時代の半分にも満たず、石岡〜常陸小川間のBRT区間でさえも、茨城空港線を含めた本数でやっと鉄道時代と同等の本数を確保しているといった状態です。
 開通後10数年が経過しバス専用道の路盤の痛みもバスの乗り心地に大きな影響があるほど目立ってきており、今後は、バスを運転しながらの路盤の補修方法や、上下分離の下側である自治体の負担する補修費用についても問題になって来るものと思われます。

日立電鉄

 水郡線の常陸太田駅に隣接していた常北太田駅と、常磐線の常陸多賀〜日立間の線路沿いにあった鮎川駅の間を、常磐線の大甕駅を経由して結んでいた路線です。
 1928年(昭和3年)年末に常北電気鉄道として大甕〜久慈(浜)間が開業し、翌1929年に久慈(浜)〜常北太田間が開業しました。日立市内の工場への労働者輸送が企図され、1942年(昭和17年)には大甕から日立への路線が免許されています。
 1944年(昭和19年)の戦時統合では茨城交通となった県央の各社との合併が考えられましたが、結局は日立市域のバス事業者を統合する形で、日立製作所傘下の日立電鉄となりました。
 日立までの路線は、戦後の1947年に鮎川までが開業しています。その先は鮎川の谷があるせいか、日立駅南側の線路用地が確保できなかったせいか、路線が延長されることはありませんでした。
 2003年に廃止問題が浮上し、常陸太田市は財政支援も視野に入れた対応を模索しましたが、日立市は一貫して財政支援には否定的でした。
 短い期間で廃止届が提出され、慌てて組織された存続運動も実らず、2005年3月31日の最終運行をもって廃止されました。
 廃止後、鹿島鉄道のBRT化を追いかける形で、約48億円(日経BPによる)を投入して日立市内の一部区間のBRT化が進められました。これは存続問題の際に事業引受に名乗りをあげた会社の変電所更新をも含む支援見積額(十年間で21億円弱)を大幅に上回っています。
 現時点(2024年9月)での運転本数は平日に55本で、日立電鉄時代(1997年)の38本を上回っていますが、大甕から水木方面の場合、始発は電鉄0536に対しBRT0630と1時間遅く、最終は2222に対し2053と1時間半早くなっています。BRTの土休日の本数は半減し24本となり日立電鉄時代の31本を下回ります。

筑波鉄道

 常磐線の土浦駅と、水戸線の岩瀬駅を結んでいた路線です。
 1918年(大正7年)4月に土浦〜筑波間、6月に筑波〜真壁、9月に真壁〜岩瀬と順次開業し全通しました。
 戦時の統合で1944年(昭和19年)に常総鉄道と合併し、常総筑波鉄道筑波線となり、1965年(昭和40年)には鹿島参宮鉄道と合併し、関東鉄道筑波線となりました。その後1979年(昭和54年)に経営分離され、筑波鉄道となりました。  観光シーズンには常磐線から直通の乗り入れ列車もあり、水戸線側では小山迄の定期列車の直通乗入が行われていました。
 1970年代後半になると経営難が表面化し、1984年には沿線市町村への廃止申し入れが行われました。存続が模索されましたが、1987年3月31日の最終運行をもって廃止されました。
 廃線跡はつくばりんりんロードとして自転車用県道としての整備が1991年から2002年までに80億円以上を投じて行われました。筑波鉄道の収支は約1億5000万円弱の赤字。赤字補填するなら50年分以上が投入されたことになります。
 おしなべて財政支援ではなく土木費用であれば高額な予算がつくということですね。

茨城交通茨城線

 常磐線の赤塚駅から、水浜線と接続していた上水戸駅と、石塚などを経由して、城里町の御前山とを結んでいた路線です。
 茨城鉄道として1926年(大正15年)に赤塚〜石塚間が開業し、翌1927年(昭和2年)に御前山までが開業しています。
 戦時統合により、1944年(昭和19年)、湊鐡道・水浜電車と合併し、茨城交通茨城線となりました。
 経営難により1966年(昭和41年)に石塚〜御前山、1968年(昭和43年)に大学前〜石塚の営業を廃止し、最後まで残った赤塚〜大学前も1971年(昭和46年)に廃止になりました。

茨城交通水浜線

水戸市街の西側、上水戸から水戸の市街を横断し、水戸駅北口前を通り、常磐線を渡り、浜田、谷田、六反田、大串等を通り、磯浜を経て大洗神社の裏手の大洗まで(一時は那珂川を渡り湊町まで)を結んでいました。
 1923年(大正12年)に浜田〜磯浜間が開通、1926年(大正15年)に磯浜〜祝町を延伸、1928年(昭和3年)には西側が袴塚まで延び、1930年(昭和5年)に那珂川を開門橋で渡り祝町〜湊町までが開業しましたが、1938年(昭和13年)の洪水により海門橋が落橋し、以後は再び祝町までの運転となりました。
 戦時の統合により1944年(昭和19年)、湊鐡道・茨城鉄道や他のバス事業者と合併し、茨城交通水浜線となり、合併により同一会社となった茨城線の上水戸までの路線が設けられました。
 1956年(昭和31年)には茨城線の大学前までの乗入が開始されましたが、自動車・バスとの競合や、幹線道路の渋滞要因だとする水戸市議会からの撤去要請などもあり、1965年(昭和40年)に水戸駅前〜上水戸間が廃止となり決定的に利便性が失われた末、翌1966年(昭和41年)に廃線となりました。    

常総筑波鉄道 鬼怒川線

 1923年(大正12年)に鬼怒川からの川砂利の採取のために専用線として敷設された路線でした。
 1927年(昭和2年)に常総鉄道が買収し旅客営業を1957年(昭和32年)まで実施していました。
 1964年(昭和39年)に貨物営業も終了し廃止されました。

水戸電気鉄道

 水戸駅南東に位置した柵町駅と、茨城町の涸沼川南岸の奥ノ谷とを結んでいた非電化路線です。
 常磐線は石岡からほぼ北進し水戸鉄道の友部へ接続する路線を選択したため、取り残された石岡から水戸までの陸前浜街道沿線の輸送を企図したものでした。
 1929年(昭和4年)に下水戸〜常陸長岡間を開業しています。その後、下水戸〜柵町、常陸長岡〜小鶴と路線を延ばし、1934年に奥ノ谷までが開通しています。
 石岡へは省線の石岡駅と鹿島参宮鉄道の石岡駅に割り込む形での乗入が企図されており、国立公文書館所蔵の鹿島参宮鉄道の関係図書に乗入時の計画図が収録されています。
 営業は振るわず、1936年(昭和11年)には早くも営業実態が無くなり、1938年(昭和13年)に営業廃止が許可されました。
 
 国土地理院(大日本帝国陸地測量部) 2万5千分の1 水戸
 大正4年測量昭和5年鉄道補入昭和8年部分修正測量
 昭和11年1月30日発行

常南電気鉄道

 常磐線の土浦駅と海軍航空隊の有った阿見町とを結んでいた電化私鉄です。
 1926年(大正15年)に根崎〜阿見間が、桜川に架橋して1928年(昭和3年)に土浦駅前〜根崎間が開業しています。
 海軍航空隊の人員輸送を主目的としましたが、路線長も短く、バス路線との競合もあり、営業は振るわなかったようで、1938年(昭和13年)には全線廃止となっています。
 
 国土地理院(大日本帝国陸地測量部)5万分の1 土浦
 明治38年測量昭和4年修正測量
 昭和7年4月30日発行

村松軌道

 常磐線の石上(現東海)駅と、村松虚空蔵尊の国道245号線を挟んだ西側の阿漕とを結んでいた軌道です。
 村松虚空蔵尊の参拝客輸送を目的に1926年(大正13年)に開業していますが、開業がかき入れ時の十三参りの時期を逃し、その後も競合するバス路線と比較して阿漕から境内迄の徒歩連絡が不評だったらしく、経営に苦しんだようで、1933年(昭和8年)には廃止認可となっています。
 
 国土地理院(大日本帝国陸地測量部) 5万分の1 那珂湊
 明治38年測量大正4年修正測量昭和5年鉄道補入
 昭和6年11月30日発行

鹿島軌道

 鉾田市の鉾田と大洗町の大貫を結んでいた軌道です。
 1924年(大正13年)に鉾田〜子生間が、1926年(大正15年)に子生〜大貫間が開業しています。
 鉾田駅は鉾田市街東側の台地上に有り、鹿島参宮鉄道の鉾田駅とは接続していませんでした。
 大貫駅も大貫市街を通り抜ける事ができず、水浜電車の大貫駅とは接続していませんでした。
 営業は振るわなかったらしく、1930年(昭和5年)には廃止になっています。
 
 国土地理院(大日本帝国陸地測量部)5万分の1 鉾田
 明治36年測量昭和3年鉄道補入
 昭和4年6月30日発行
 

笠間人車軌道

 水戸線の笠間駅前と、笠間稲荷神社の門前を結んでいた人車です。

 


 

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